今日は創作童話から話が始まります
檻の中で毎日えさと水を与えられているガチョウは、えさと水があることが当然となるでしょう。それらに認識行動は行われず、次第に意識から外されます。
「なぜ毎日エサと水があるのか?」
そう思うことは、一生ないガチョウAと
そのことを毎日不思議に思うガチョウB。
ガチョウAにとっては、ガチョウBの言うことは全く理解ができません。
ガチョウAにとって、毎日必ずあるのだから考える必要はないのです。
それより、もっと大事な関心事は山ほどあります。
しかし、ガチョウBには不思議でなりません。
「なぜ毎日エサと水があるのか?」
不思議に思ったガチョウBは、あることを思いつきました
「どこからエサがやってくるのか、その瞬間を見てみよう。」
そして、気づくのです。エサが檻の外からやってくることを。
大きな見たことも無い肌色の物体が、エサを運んでくることを。
檻の外の世界に気づいたガチョウB
檻が世界全てのガチョウA
檻の外の世界を見たガチョウB
檻が世界全てのガチョウA
檻の外には太ったガチョウが山積みされているのを見たガチョウB
檻が世界全てのガチョウA
>>>この童話に似た話は、ワタシが今考えました。
書き終わった時「マトリックス」を思い出しました。
自分が信じて疑わないこと、当たり前すぎて考えないこと、
つまり、自分の中でいつの間にか出来てしまった檻の存在。
先日、アメリカ大統領選挙の投票方法の問題のニュースを見ていた時、
「日本と同じく、ペンで記入じゃダメなのか?」
と安易に考えました。
しかし、それはガチョウAの考えだと直ぐに気づきました。
日本の識字率(公用語が読み書きできる人口比率)は99%
対してアメリカは、成人中20%は11歳程度かそれ以下の識字力しか持っていない。
今回の選挙のような接戦だと、有権者の20%の票数、
これは十分に結果を左右する数字です。
日本に住んでいると、識字力という言葉自体が不要に感じてしまいます。しかし、それは高度な義務教育というエサのおかげなのです。
自分の檻の存在を意識させてくれるきっかけ。
今の自分には「物理学」がその役目を担ってくれています。
宇宙の果てや、見ることが不可能な微細な物質。
上の例のようなシリアスな話ではなく、
もっとロマンと夢のある話で、物理学は自分の檻を気づかせてくれる。
文科系の読者にとっては、物理学なんて、もしかしたら「不必要」で「難解」で全くかかわりのない絵空事というイメージが強いかもしれません。たしかに微に入り細を穿つような科学論文を読む必要はないですし、技術的な計算が日常生活を助けるとも思えません。
ですが、忙しい情報化時代に生きる現代人、とくに文系の読者にとっては、いま現代物理学を学ぶことに大きな意味がある、と私は断言したいのです。(世界が変わる現代物理学−はじめに から)
という冒頭文で始まるこの本は、自分の檻を穏やかに広げてくれる本でした。
![]() | 世界が変わる現代物理学 竹内 薫 Amazonで詳しく見る ![]() |
つーか、回路が似ているのか?
物理学、最高に魅力的で、深遠なる学問です。
ところで、エサの出所を知ってしまったガチョウBは、程なくして自らの存在意義(食用?)にも気がつき、無知なる幸せに浸るガチョウAとは異なる、苛烈な人生に挑む事になるのでしょうか。
ありがとうございます。
>苛烈な人生に挑む事になるのでしょうか
このあたりになると、物理学よりも哲学や宗教の範疇に入る話になりますね。
知らずに死ぬ事と、知って死ぬのとは、究極の選択のように言われていますが、知らずに死ぬとそこで全てが終わりますが、知った場合は後世に何かを残せると思います。
もし、全ての生命が「種の保存」を最大使命としているなら「知って死ぬ」を選ばない理由は、そこにはないでしょう。
ガチョウBは「その後に大きな影響を与える活動」を行う可能性が潜在しています。が、ガチョウAにはまったくありません。