■* ツキノウラガワ | ブログが、とあるかぞくに、もたらしたもの。
朔夜 さんはここから知ったようです。
■光色のかけら | とある かぞくが のこした blog
■これは とある かぞくが のこした blog で ある。
上記の1文から始まるこのページ。
という始まりで紹介されている、このコンテンツ。どちらにも共通するこのコンテンツに対しての“怖さ”の認識は、
「ブログによって、個人情報が漏れ、それが崩壊に繋がる」
という意見が大半であった、今の時点では。
ここでは少々違った視点から考えてみたい。
「ダブルバインド」という言葉をご存知だろうか?
(このネタ、後にエントリします)
ここでは、
「直接に表現しないが、暗に秘めた裏意味が無意識下で伝わる」
という程度に理解してもらえればいいかな。
このコンテンツで直接に表現されている“怖さ”は
個人情報の漏れと、それが生んだ悲劇ですよね。
ただ・・・
直接には語られていなくて、あたかも当たり前のようになっている
その事実を意識されたでしょうか?
例えば、いじめの原因があたかも正当化されていること。
これが同級生の親のブログだったら、わたしだってその子をからかいたくなるだろう
たとえどのような事情があろうとも、
いじめて良い理由なんてこの世の中にはないと思うのですが、
この話ではどうでしょうか?
たとえ不用意に個人情報が流れたところで、
それを悪用したりいじめの理由にするのは、本来使う方が悪いと思うのですが、
この話ではどうでしょうか?
ボクが感じたもうひとつの“怖さ”
それは、いじめの理由を親に摩り替えていること。
そして、それがあたかも正当な理由かのような論調。
冷静に考えると、ありえない論調なのに、
それがさらっと読めてしまう理由はどこにあるのか?
結末となる最後の文章は、娘自身の言葉である
ということを忘れないでください。
いじめによって冷静さを失っている、娘の主観である
ということを忘れないでください。
娘と同じ心境になり、娘と同じ目線になり、娘と同じ思考
にはなっていなかったか?
一見まっとうで冷静な意見が書いてある
かのように書かれていますが、
彼女は冷静さを失った、10代の少女なのです。
当然、間違ったことも書くだろうし、
幼い考えであるだろうし、考えも浅い・・・
可能性がある人が書いた文章です。
この両親は、
彼女の一見まともに見える姿にすっかり騙されていましたよね?
ダブルバインドという言葉を出した理由はここにあります。
このコンテンツの一番巧みであり、怖さを感じた点は、
突然ショッキングなデザインに変わる刺激と、
いじめという難解で大きな問題と、
世間という不特定多数の顔の見えない大きな相手、
これらどんな人でも冷静さを失ってしまう要因を表の表現にして、
実は、娘がやってのけた大人を騙すという行為を見事に隠している点。
親だけが騙されたのでしょうか?
最後の文章を、何の疑いもなく読みましたか?
アクセス数という魔法にかかった両親を持つ彼女が書いた文章・・・。
ボクが言っているのは、彼女がウソを言っているとかいないとか、
そのことを言っているのではありません。
そんなことは意味のあることではありません。
これはフィクションなのですから。
ブログというウソも本当も書けるメディアに対し、
なんの疑いもなく、そこでの言葉を受け入れ、
挙句にはいじめまでも正当化する勢いの、不特定多数。
そして、毎日顔を合わし、
よく話す親という相手を騙しつづけることができる少女。
その彼女の言葉に
疑いを持つことが暗に否定されているかのようなストーリー。
そして、彼女を信じることに疑いを感じる暇もない展開。
本当のところは、誰にもわからないでしょう。
これはフィクションなのですから。
でも、もしこれがノンフェクションだったら、
彼女の言い分を100%信じる、
それだけが、本当に冷静な大人の判断なのでしょうか?
最近のニュースでこの言葉、よく聞きませんか?
「そんなことをするような そんな そぶりはありませんでした」
子供は親を選べない
屈折した愛情表現
押し付けの家族愛
まっぴらだ
子供はいつか親に牙を向けるのよ
(だから子離れは早めにw)
とても自分に置き換えやすいリアルさがあるコンテンツですよね。リアルさがあるからこそ、多方面からの視点により解釈できるかと思います。
これはあくまでも、その一つ。
そして、自分に置き換えもその一つですね。
正直怖いので、あまり自分に置き換えたくないのがホンネかな?^^;
読んでるときは思わなかったけど、ブログって「ウソ」も書ける。
そこに全然目が行かなかった。
そう思わせるのも「ブログ」の怖さか、とも思った。
そのうちこんなようなことがニュースでとかワイドショーで騒がれるようになるのかな。
「ダブルバインド」という単語、初めて知りました。
で、とても私にとっては面白い切り口で読んでらっしゃるなぁとおもって
すごく興味深かったです。
ダブルバインドでのエントリ、楽しみにしてます!
ボクは実はみんなのいう「ブログの怖さ」はあまり評価していません。そりゃ、怖いですよ。
って新しいメディアがでれば、いつもやるお決まりでしょう?ゲームができたときも、子供の目が悪くなるって言ってたし、インターネットもコミュニケーションがどうこうって。
もし、それと同じだけなら「またかっ」ってなってたと思う。
ブログという形態をした小説を、いつも読んでいる方法で提示しているこの方法が面白いんですよね。
ホラー映画を見れるのは、映画だと認識しているから。その認識は、映画館だったり、TVのフレームだったりがあるおかげです。
これはその認識するアイテムがまったくないのですね。だからフィクションだと認識しずらく、リアルさが増すのです。
ブレイヴィッチと同じ手法ですね。
そして、ウソの二重構造。
かげまるさんが言うとおり、ブログはウソが書けます。だからブログ自体がウソかもしれない。そしてこれはフィクションというウソ。
そこで重要なのは、読者として何を信じるか?
何を信じました?
そしてそれは、誰かも見失ってましたよね?
これも、リアル感が増している原因の一つだと思います。
■はに〜さん
ハジメマシテ、はに〜さん
↑の答えも面白く感じていただけるのではないでしょうか?
このあたりの演出手法を分析して、新しい小説媒体として考える小説家がでそうですね。
その時の為にも、次のエントリーをぜひ読んでみてくださいな。
読み終わったとき、私はすっかり娘側になってました(^^;)。文章の魔力って恐ろしいですね。
フィクションなのに、すごくリアルさを感じる・・・こういうことが有り得ないと否定できないような話だからでしょうけど。
何かを信じるということの難しさを考えさせられたような気がします。
普通は感情を入れて読んでしまうので、情のおかげで娘と同調して読むでしょう。いやそれが正常な反応だと思います。
ボクは、最後の誰を信じればいいのか?という問いで醒めた…。自分が読んでいるものも何であろうか?と。